日本人のスキルを奪うコンビニの隆盛 |
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| コンビニ隆盛の背景 コンビニエンス・ストアは、文字通り便利な店である。アメリカ生まれのコンビニを日本流にアレンジして、今日の隆盛の先陣を切ったのは、セブン・イレブン・ジャパンであるが、本家のサウスランド社を買収してしまうほどの発展ぶりである。 同社は流通業トップの収益率を誇るばかりか、バブル崩壊後の日本経済の優等生である。一時、法人所得ナンバーワンになったこともある。トヨタや野村証券を抜いて......。 わが国にコンビニが誕生して、四半世紀が経過した今日、全国に約四万店舗がひしめき合っている。このうち首都圏に約四五%の一万八千店が集中する。この数は全国の特定郵便局や書店、ガソリンスタンドよりも、はるかに多い。タバコ屋や酒店などは、コンビニに取り込まれたばかりか、郵便局や書店の機能の一部である切手・印紙類の販売や雑誌コーナーまでも完備している。 そればかりではない。 銀行に行かなくても、ATMの端末から、現金の引き出しが出来る。自動支払い機によって、今後は公共料金の支払いが、二十四時間可能になる。これまで公共料金は支払い代行機関として、コンビニのカウンターで処理してきたが、ATMの設置によって、本人が処理出来るようになる。 まだある。自分で注文した書籍や宅配便の受取り、支払いが最寄りのコンビニで行える。チケット類の受発注も同様である。更に、通信音楽配信による端末からは、自分の好みの音楽をCDに収録して、自分だけのオリジナル版をその場で制作することも可能だ。同じように中古車情報端末機からは、お気に入りの中古車が見つかれば、発注・納車の手配まで出来る。 まだ実施されていないが、近いうちには、共働きの夫婦のために、ベビーシッターや庭師の予約・派遣も某コンビニで検討中である。 コンビニは、さながらIT社会のヒト、モノ、カネ、情報のフロント基地になってきている。コンビニは、既にeコマースの最前線を形成しているのだ。 もはや、コンビニは日用雑貨店ではなくなった。従来の日用雑貨店は、コンビニにすべて駆逐されてしまった。現代のコンビニは、日用雑貨店を先端のサイエンスによってコントロールし、オペレーションしているのである。 本部はスーパーコンピュータによって、店舗別に単品ごとの売上げをチェックし、品切れ・在庫状況を秒単位で把握するばかりか、チャンスロスの絶滅を図っている。チェック項目には、年齢、男女、その日の天候、時間等が入力される。三百六十五日、いつ、どこで、誰が、どんな天候の下で、何を、どのくらい購入したかが、瞬時にデータ化されてしまう。 このデータを集積、分析することによって、売れ筋商品が次々と変化していくのである。 あるコンビニでは、標準的な店舗の三千アイテムのうち、六割が一年間で入れ替わってしまうという。 コンピュータと通信回線によってコントロールされる街のコンビニは、本部が自動的に売れ筋商品の仕分けをしながら、店頭商品の選別と在庫・発注管理を行っているのである。 まさに、サイエンティフィック・ストアなのである。 人間を退化させる便利さ 世界一の普及率を誇る携帯電話は、iモードの開発によって弾みがつき、NTTドコモは独走態勢に入った。欧米の巨大通信会社とも提携し、世界中にiモードを普及させる構えだ。コンビニも、携帯も、アメリカ生まれであるが、キメ細かなアイテムとソフトを機能化したのは、わがニッポンである。この軽薄短小化技術こそ、ソニーのトランジスタラジオ以来のお家芸である。 一方、地球レベルで、人間あるいは人間社会を考察すると、人間(人類)だけが、こんなにも便利さを享受してよいのか、という視点が重要になってくる気がする。いや、同じ人間でも、今日の豊かさ、便利さの恩恵を受けているのは、いわゆる先進国といわれる国の約十二億人だけである。これは、地球人口六十億人の丁度二十%に相当する。その他の四十八億人を擁する国々では、飢餓や疫病に苦しみ、貧困に晒されている。 限りある石油をはじめとする鉱物資源の消費量は、二十%の十二億人が、全体の八十%を占めている。この差は広がるばかりである。 地球レベルの問題は、その道の専門家や賢人たちにその解決策を委ねるとして、われわれ個人レベルでは、身近なことから、便利さの継続のためにも、人間とは何かを再考しなければならない。 筆者はコンビニを罵倒するために拙稿を書いているのではない。不便よりも便利の方がいいし、筆者も現代の利便性を享受している一人である。 人間は考える葦である≠ニいう格言がある。人間は知性を持つが、弱い存在である、という意味であろう。人間は万物の霊長である≠ニもいう。人間は地球上で最も優れているということだろう。反面、犬畜生にも劣る行為≠ニいう表現がある。これは万物の霊長の正反対の言葉だ。犬畜生以下とは、動物以下という意味だ。 過剰な便利さで、人間が得るものは何か。本来、人間は進化の過程で、創造性を発揮してきたはずである。人類の歴史上、消費と創造(生産)のバランスシートでは、絶えず後者が上回って今日まで来たはずである。しかし現代においては、明らかに消費が先行している。 コンビニに並ぶ商品群は、中身よりもパック(包装材)の消費が大きい。紙(箱)から発砲スチロール、ペットボトル、缶などに至るまで、貴重な資源を使用している。環境・リサイクルが叫ばれているが、まだ過剰包装が多いし、投げ捨ても跡を絶たない。これらは法律や制度の問題よりも、人間が霊長か犬畜生かの問題である。 食べ物などは、余程のことがない限り、自分でつくるべきだ。既に食べ物を自分で作る技術(スキル)を失っている若者が多い。エンピツも削れない、キュウリもスライスできない、靴も磨けない、などの新人類が多いと聞く。 日本人はスキルアップが好きな民族だった。明治時代の『あゝ野麦峠』(山本茂實著)の時代に戻れ、とは決して言わない。ただ、お袋の味の居酒屋チェーン「和民」などの大繁盛をみるにつけ、若者たちは家庭の味に飢えていることが露呈される。家庭からお袋の味が消え、幼児の頃からカップラーメンやスナック菓子ばかりを食べる。二十歳になって「和民」に行って、お袋の味にありつくというのは、どう考えても間尺に合わない。 筆者は家庭菜園ばかりか、日用大工、庭いじり、料理も大好きだ。料理は包丁を研ぐことから始める。妻や娘たちからは、「原始人」といわれるが、果たしてどちらが正しい人間のあり方なのだろうか。 |
イラスト: かわかみゆういち |
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月刊「力の意志」(サンラ出版) シリーズ 視点・論点 |
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