読書と旅が人間を豊かにする |
|||
本が売れない 売れない理由は幾つもあって、複合的に絡み合っている。少子高齢化、活字媒体以外のメディアの発達、趣味の多様化、受動的から能動的趣向への変化などである。これらの理由は当たっているが、いずれも皮相的なものばかりだ。ほんとうの理由は、もっと深層にある。 ひと言でいえば、日本人の人間力の低下である。ひと昔前までは、読書は姿勢を正して精神を鍛える行為だった。現代では、姿勢など正さなくてもよい。休日の昼下がり。朝食の後片付けや、洗濯を済ませた後、ソファかロッキングチェアで文学書を読む。ソファなどに座らなくてもいい。掃除の後のベッドやじゅうたんに寝そべって、作家が紡ぎ出した最初の一行から現実と仮想の狭間を彷徨する時間は、人間だけに与えられた特権ではなかったか。 栄養の三要素といえば、蛋白質、炭水化物、脂肪である。同様にムリを承知で、人間力の三要素を挙げれば、体力、知力、気力だろう。 鬼才の棋士升田幸三(故人)は、この三つのバランスが重要だと説いた。バランス以前に順序が最重要だとも教えた。一番大切なのは体力。これは健康的な肉体のこと。これなくして、知力も気力も湧かない。次に知力だが、これには二種類あるという。一つは定石などの定番を完全に覚えておく力、もう一つは定石の応用、もしくは破壊。前者は知識であり、後者は知恵だという。最後の気力は、体力と知力の合体したものだが、決断力、勇気、持続力、ポーカーフェイスなどが含まれるそうだ。 人間力の低下は、三つの要素の低下のことである。読書イコール知力ではない。エンターテイメントやミステリーは、知識力をつけるために読むのではない。簡単に言えば、楽しさを得るための読書がある。難解な哲学書や思想大系だけが本ではない。もっとも小説さえ読まなくなった現代人が、大説に相当する哲学や思想大系など読むはずがない。一般の書店からすべての文学全集が消えてしまって久しい。 貧しい時代には、一部の文豪を除き、小説家などはドサ回りの旅役者同様に、賤しい職業だった。そのころの作家は肺病のなりそこないぐらい、弱々しい存在だった。 戦後が終わった昭和三十年代になると、三島由起夫、石原慎太郎、開高健などが登場して、カッコイイ存在になってきた。 高度成長期に入ると、三島も石原も、富を仕切る政治に傾斜していった。三島は自らの生命を絶つことで存在を証明し、石原は国会議員から東京都知事になって、文学とは対極にある政治に活路を求めた。 小説など数えるほどしか読まない私が、何故こんな拙稿を書くのか。 それは、もはや旧聞となった「文学は可能か」を、我流で検証しているのである。活字媒体の王道は、長い間文学がシェアしてきたが、もはや傍流になってしまっている。 物質文明のピークは、バブル期であった。バブルが崩壊しても、現代人の多くはカネを得ることが幸福を得る手段だと信奉しているフシがある。書物などを読んで幸せになれるとは、ほとんどの人間が考えていない。そんな暇があれば、メイク・マネーに精を出した方がいいと思う人の方が多い。ビジネスマンやサラリーマンたちは、娯楽や教養を求めて本を手にするよりも、マクロ経済、経営、企業もの、ビジネス書、IT関連図書を求めているに違いない。大型書店では、これらのコーナーが最も充実している。 人間の証明 人間力の低下は、食欲や物欲(性欲も含む)に走らせる。その証拠は、旅の仕方に現われる。旅の醍醐味は、未知の世界との遭遇である。いま、観光の真の意味を知って旅する人たちはマレである。「観光」すなわち光を観察するという「光」とは、文化(民族性、伝統、歴史、宗教など)のことである。光とは誇り高き民族が築いた文化のことなのだ。漢字圏の中国、朝鮮(いまはハングル)、ベトナム(現在はフランス語表記)は、独立記念日を、いずれも光復節と呼ぶ。直訳すれば、自国の文化を取り戻した日ということになる。 いま、日本人は年間約千七百万人が海外旅行に出掛ける。その大半は真の意味の観光ではなく、グルメ(食欲)とショッピング(物欲)である。ここに人間力の低下を見ることが出来る。観光ガイドブックの最重要テーマは、イラスト入りのグルメとショッピングを案内することである。読者のニーズに合わせていると言えばそれまでであるが、せっかく大枚をはたいて異国の地を訪ねる目的が、食欲と物欲を満たすだけとは、いかにも寂しい。 観光旅行の真の意味は、国の内外を問わず、訪問先の異質な文化に触れ、感動することであり、共鳴することにある。そこから異質な文化の相互理解が始まるのである。和して同ぜず≠フいい関係が生まれてくるはずだ。 これは、読書ともピタリと当てはまる。未知への探査と遭遇は、旅行も読書も、本来は同じ行為なのだ。人との出会いも、またしかりである。生涯旅が続けられて、未知の人たちと出会うことができれば、その人生は最高のものになる。しかし、旅を続けるには資金が必要だ。資金がなければ、訪れた先々で働いて代価を得ればいいのだが、現実的にはムリなことである。 このムリな相談を叶えてくれるのが読書ではないのだろうか。わずかばかりの代価によって、異質な人、地域、文化、娯楽にありつけるのが読書である。本ほど安いものはないと思う。 その本がさっぱり売れない。中でも良書ほど売れないという。本など読まなくても生きていけると、誰もが思っているだろう。多様な価値観や趣向を身につけていないと、味気ない人生になるばかりか、社会のもくずのような存在になってしまうと思うのだが......。 IT社会は、情報の下に人間が離合集散する社会である。それだけに、おのれを見失った存在になったとき、惨めさは深刻なものになるだろう。iモードの携帯電話も結構。茶髪、厚底靴も結構。目に見えるものは、時代と共にどんどん変わればいい。 しかし人間の尊厳だけは、失ってはならない。生きとし生ける人間は、動物に近付いてはならない。それは退化である。 旅と読書の仕方で、もう一つの民度(人間の成熟度)がわかると思う。大気中の炭素を増やさない技術革新が、人類が生き延びる当面の課題とするならば、生き残った人間が退屈しない生涯を送るためには、異質な文化に触れることである。それには、読書と旅行が欠かせない行為だが、問題はその中身であろう。いま一度、考え直す時期が来ている。 読書といい旅は、人間の証明行為である。 |
イラスト: かわかみゆういち |
||
月刊「力の意志」(サンラ出版) シリーズ 視点・論点 |
|||