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『いちばん大事なこと』を読んで
   
    バカの壁

 養老孟司の『バカの壁』を読んだ。
 同著は二〇〇三年のベストセラー一位となり、二百万部を超える読者を獲得した。
 養老氏は東大医学部卒業後、解剖学教室に入り、脳解剖一筋に過ごした。東大医学部教授退官後、現在は北里大学一般教養の中で、脳の仕組みや働きを教えている。
 ある意味で隠居生活に入った養老氏が、初めて自由の身で書いたのが、『バカの壁』である。専門分野で培った知識と体験による『バカの壁』は、脳学者がバカ≠フ正体に迫ったものである。
 しかし、読んでいくうちに、合口を突きつけられる思いがした。脳の仕組みや構造に、バカと利口の壁がないことが明らかになり、そう思いこんでいる人たちこそ、自らバカの壁を形成しているのだと指摘しているからだ。
 チンパンジーと人間の脳の違いは、たった二%しかないことを知るに及び、決定的な差が脳の大きさ(キャパシティー)によるものだと分かった時点で、ある意味で失望≠オた。
 この失望≠アそが、バカの壁だと養老孟司は明かす。利口の中身を示す言葉を列挙すれば、記憶力、教養、高学歴、個性などが挙げられる。けれども、これらのどの一つも、利口の必要十分条件にはならないと言っている。利口かバカかは、脳とほとんど関係ないのだ。
 利口とは、社会への適応力だと明言している。
「なぁーんだ」と思うことがバカの壁になっているのだ。記憶力を示す、百桁の数字を一分で暗記するような人は、そのほとんどが社会適応力はなく、とんちんかんな生活者に多いと言う。
 教養や学歴は、それが自分の人生に活用され、更に社会に役立っていない限り、無用の長物だと宣う。
 世間では、個性教育、個性的な人生を推奨しているが、個性的に生きるには社会の常識から離れ、まるで世捨て人のように生きることだとも説く。
 例えば野球の松井秀喜選手やイチロー選手、サッカーでは中田英寿選手などは、身体的に個性派に属する。彼らに匹敵せんとし、一般人が三倍、五倍練習を重ねても、彼らのようにはなれないそうだ。神の与えた身体は作り直すことは出来ないのだ。
 この本を読んだ直後に、藤原和博校長に会った。藤原さんはリクルートの優等生だったが、リクルートに飽き足らず三年前にリクルートを辞し、教育界に身を投じた。当欄に取り上げたこともある。彼は昨年四月から杉並区立和田中学校の校長先生に就任した。
 その時に、子供に読書の必要性を説き、同校に読書時間を取ったところ、年間で五、六十冊のペースで本を読み出したという。年間百冊を超える生徒も出現しているそうだ。
「河野さん、『バカの壁』を読みましたか」
 藪から棒に藤原さんから尋ねられた。
「どうでしたか。面白かったですか」
 追い打ちをかけられた私は、とっさに答えた。
「面白くなかったですね」
「でしょう?何を言いたいのか、よくわかりませんでした」
「それでいいのではないでしょうか」
「マニュアル人間を推奨していましたね」
「都市化は情報化、脳化現象の一部だとも言っていました」
 要するに、バカの壁は脳にあるのではなく、脳の使い方にあるのだ。人間の脳の働きは、決して高級なものではなく、自然や一般社会への適応力を脳によってコントロールされているに過ぎない。適応力を失った人間(民族)は、とっくに地球上に存在しないのである。

  人間は自然の産物

『バカの壁』は面白くなかったと言いながらも、続いて同じ養老孟司氏の『逆さメガネ』を読んだ。これはバカか利口かを解析したものではなく、いわゆる世間の常識に逆さメガネを透かして見たものだ。マスコミを通して得る情報がすべて真実だと思うなかれ。数の多い声が社会の主流だとは断定できない、という内容のものだった。常識の非常識、正義の欺瞞に焦点をあてたものが多かった。
 昨年、養老氏が出した本は三冊だ。どれも手軽に読める新書判だった。
 最後に出版されたのは、『いちばん大事なこと』である。サブタイトルに―養老教授の環境論―と表示してある通り、養老氏が書けば環境論はこうなる≠ニいうものだった。
 自然派の私にとっては、この本が『いちばん大事なこと』と表記した意味が読み取れた。
 ムシが大好きな養老氏は、子供の頃から今日まで、ムシを求めて全国、いや世界を歩いてきた。小さなムシの生態を観察すれば、人間がいかに無謀なこと≠して生きてきたかが、手に取るように分かる。拙著『メダカはどこへ』どころではない。
 恐竜の絶滅は誰もが知っている。巨大動物だから、発掘もしやすい。しかし、ほんとうの絶滅の理由はまだ解明されていないのだ。
 まして、小さなゾウ虫などの生態は、調査の対象になりにくい。恐竜の骨は、その巨大さゆえに何万年も腐らないで残るものが多い。しかし、小さくても甲類の虫は、土中深い層で腐らないで残るものがある。
 大阪の高槻にあるJT生命研究所では、オサムシのDNAを調べて、日本のオサムシの生態系統図を完成させた。それによって、日本列島がユーラシア大陸から分離した時期、東日本と西日本に分かれていた時期、北海道と東北が繋がっていた時期などを特定できたという。オサムシの種類と地層年齢によって、黙示録ならぬ虫メガネが地球の成り立ちを証明してみせるのである。
 人間は産業革命が始まる前まで、自然と人工物の間をムシが行き来することを許容してきた。しかし、その後の大規模な都市化によって、ムシの往来は拒絶されてしまった。人間はムシ即ち害虫と解釈して、都市生活者は、ハエや蚊どころか、あらゆるムシがいなくなってほっとしている。
 これは煮え湯の蛙の状態である。
 気がついたときは、蛙は煮え湯の外に飛び出せない。煮え湯の釜を地球に置き換え、蛙を人間に置き換えると、現代人の立場が鮮明になってくる。
 養老氏は、純粋環境論を排している。一匹のムシも、一本の木も採取してはならないでは、人間社会は回らなくなってしまうからだ。要するに人間と人間以外の生物との折り合いの問題である。
 環境問題は政治問題でもある。
 しかし、政治問題だと決めつけ、高見の見物を決め込んでいる現代人は、煮え湯の蛙に限りなく近い存在なのだ。
 脳の構成で二%しか劣らないチンパンジーに笑われないよう、現代人の脳の使い方に改善が迫られているようだ。
 


イラスト:
かわかみゆういち
 
月刊「力の意志」(サンラ出版) シリーズ 視点・論点