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ネズミ一匹で人間の限界を知る
   
     珍客侵入

 硬派な話題が続いたので、軟派な話を書く。
 昨秋わがオフィスに珍客が不法侵入した。
九月×日 残暑も去り、抜けるような空になった。一年で最も過ごしやすい季節となり、冷暖房不要の日々を迎えた。
 私のオフィスは、ワンルームマンションである。タバコを吸う私のオフィスは、冷暖房を切ると紫煙が充満する。このため窓を開けて喫煙することになる。この日は高窓のほかに、ベランダに通ずる床の引き戸も開放した。さわやかな秋風が終日入ってきていた。

九月×日 朝出勤して驚愕の光景に接した。机の上の書類が床に散乱している。もとよりモノ書きの机上は、山のように書類や資料、書籍などが積まれている。椅子に敷いてある座布団が床に落とされ、土足で踏みつけられたような汚れがあった。
 ゴミ箱がかき混ぜられ、一部床に飛び散っている。
「ドロボウだ」と、思った瞬間、コピー機下のわずかなスキ間から、ネズミが一匹飛び出し、トイレの方向に走った。トイレのドアの下は数センチ開いている。ドアを開けると、カバーのついたフタの上に、珍客が鎮座していた。ヘビは素手で捕まえられるのだが、ネズミは鋭い歯を持っているので、噛まれたらヤバい。
 足で威嚇するや否や、部屋に飛び出し、ロッカーのスキ間に逃げ込んでしまった。
 私はマンションの並びにある薬局に飛び込み、惨状を話した。すると殺鼠剤とゴキブリホイホイのネズミ用ともいえる、大型のトリモチを購入させられた。仕掛ける場所は、人間の通る場所ではなく、什器、備品の下や脇のスキ間だと教示してもらった。ネズミは夜行性の動物だから、夕方仕掛けておけば、明朝には退治されているはずだ。

九月×日 ワナにかかっているであろうネズミを捨てるため、軍手を自宅から持参して出勤。部屋に乱れはないので、ネズミはどこかで死んでいるはずである。早く死体を始末しないと虫がわいて腐る。秘書のOさんは、昨日からネズミに脅えている。ドアを開け、恐る恐る入室してきた。パソコンに向かって仕事を始めた。しばらくすると、「キャー」と悲鳴が上がる。机の下をネズミが横切ったと言う。まだ、生きていた。

九月×日 コピーを取って、机に戻ろうとすると、足に違和感をおぼえた。思わず、「あーっ」と声を上げてしまった。コピーの下に仕掛けておいたトリモチを、踏んでしまったのだ。これがなかなか取れない。思い切り引き剥がすと、取れはしたが、靴底がフガフガになってしまった。ネズミを捕まえるはずのワナに、自分がかかってしまった。

九月×日 薬局に行き、トリモチを買い直した。殺鼠剤に寄りつかないので、文句を言う。
「これの方が嗅覚を刺激していいでしょう」
 今度は劇薬≠ニ書かれた赤色の袋を買わされた。部屋のソファの下や、什器の間は既に殺鼠剤だらけになっている。

十月×日 その後もネズミは棲みついたままである。十二年間、ゴキブリ一匹出没したこともないわがオフィスに、何故侵入してきたのか。エサになるものはすべて始末した。ところが机の中のスティック糊や、Oさんの植物性ハンドクリームなどを食べて生き延びている。
 スチール机は引き出しの前にはスキ間がないが、後ろにはスキ間があいている。すべての引き出しに出入りし、腹をすかしてきたネズミは、ティッシュペーパーまで噛みだした。更に、牛革のソファを噛み、破られた。
 一週間以上も、押し掛けネズミに同居され、ホトホト参ってきた。ついに、Oさんも「事務所に入りたくない」と言い出す始末だ。

  消えたネズミ

十月×日 ネズミはどこから来たのか。秋風を取り込んだとき、ベランダから侵入してきたことにやっと気がつく。
 Oさんと二人で、ネズミをベランダに追い出す大作戦を開始する。床の上にある物をすべて机の上に上げ、机やロッカーの引き出しをすべて開放。床に這いつくばって、ソファの下や、机の下を覗く。ここにはいない。ということは、ロッカーや書棚の壁のスキ間か、開放された机の中のモノかげに潜んでいるに違いない。
 私は掃除機のパイプを取り出し、片っ端から什器、備品を叩き始めた。Oさんにはベランダに逃げ出すだろうネズミを監視してもらった。部屋にあるすべてのものを、叩きまくった。近隣の部屋には、何事が起きたかという音が響いただろう。結局、ネズミは出てこなかった。掃除機のパイプが割れ、掃除機ごと買い直すハメになった。

十月×日 深酒をした私は、終電を逃してしまった。仕方なく事務所に泊まることになった。宿泊用品は常備されている。酔眼のままドアを開け、中に入ると、心臓が飛び出しそうになった。ドアの上の配電盤から、ネズミが私の肩に飛び降りてきたのだ。
「おかえりなさい」
 の代わりに、キャッキャッと鳴き声をあげ、またしても什器の下に逃げ込んでしまった。
 私は気を取り直して、今夜中にネズミを外に出そうと決心した。ベランダ側の引き戸を数センチ開放したまま横になる。数日前にホームセンターから購入したネズミ獲りの籠をベランダに出し、数個のカッパエビセンを置いて、ベランダ側に誘導するように配置した。
 朝、目を覚ますと、カッパエビセンがなくなっていた。ベランダ上のネズミ獲りの籠には入っていなかったが、ベランダのセンベイもなくなっていた。思わず「バンザイ」と叫んだ。
 出勤してきたOさんに朗報を伝えると、やっと明るい顔になった。その三十分後、また絶叫が上がった。
「キャーッ」
 ネズミはベランダのセンベイを食べて、再び部屋に戻っていたのだ。もう、三週間も居座っている。私もついに決起した。数千円のトリモチと殺鼠剤も効果なし。靴もダメにした。掃除機も買い直した。被害額は数万円に達する。もう、許せない。
 その夜、一睡もしない覚悟を決めた。零時までテレビを見ていた。昨夜と同じように、カッパエビセンを配置。
 午前二時過ぎ、ロッカーの裏側から、壁伝いにネズミが歩き出した。私はソファの上に横になり、寝たふりをして、監視を続けた。ついに部屋にある誘導用のセンベイを食べ出した。数個食べてネズミがベランダに移動したとき、私はソファから飛び出し、素早く引き戸を閉めた。
 やっとネズミ一匹に勝った。
 ベランダの上のネズミは、両手で歯を掃除してから、這い去った。
 それ以降、ベランダの戸を開けられない。
 薬局の主人に一部始終を話した。
「それはお気の毒さま」
 私はネズミに負けたのだ。

 


イラスト:
かわかみゆういち
 
月刊「力の意志」(サンラ出版) シリーズ 視点・論点