年間八十万人が訪れる四国お遍路 |
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結願の巡拝 約一年前、当欄に「お遍路と文明の是非」を書いた。一年後、三回目のお遍路で、四国八十八ヶ所プラス別格二十ヶ寺、合計一〇八ヶ寺の巡拝を完結した。紙数に限りがあるため、別格二十ヶ寺についての記述は省略する。 一番霊山寺(阿波路)から回り始めて、三十八番足摺岬の金剛福寺(土佐路)を経て、四十番観自在寺(伊予路)で、区切り打ち止めにしたのが昨年の三月末だった。 七月梅雨明けの猛暑の中を、四十一番龍光寺(伊予路)から五十九番国分寺(同)までを巡拝して、二回目の区切り打ち止めとした。 三回目の今年三月、残りの六十番横峰寺(伊予路)から、八十八番大窪寺(讃岐路)を巡り、ついに八十八ヶ所遍路旅を終えた。 結願(けちがん)の寺・大窪寺では、「四国八十八ヶ所結願証書」をいただいた。 三回とも、先達(せんだち)には、地元さぬき市の大覚寺派等利寺住職の玉久文澄さんに務めていただいた。このお遍路に私を誘っていただいたネミックラムダの創業者斑目力曠さんに、私は同行する形だった。 それに同行二人(どうぎょうににん)の弘法大師が道中を導いて下さった。 三月下旬の遍路道、山の麓では春爛漫の風情があった。山桜と一緒に咲く小彼岸桜、桃、こぶし、猫柳、山吹の競演に、路傍には菜の花、タンポポなどが彩りを添える。 曼陀羅の遍路道は、花のマンダラ宇宙を形成していた。 しかし、遍路道は花咲くやさしい道ばかりではない。四国最高峰石鎚山の中腹にある横峰寺では、霜の道をざくざく進む足が冷たさに悲鳴を上げ、金剛杖を持つ手は寒さにかじかみ、思わず杖を離したくなるほどだった。 六十六番雲辺寺(うんぺんじ)では、山頂に雪が舞い、気温はマイナス一度を表示していた。 大窪寺で結願を果たした私たちは、翌日紀伊国高野山を訪ねた。四国八十八ヶ所の巡拝が無事に終ったことを報告し、御礼を述べるためである。これを通称「お礼参り」と言う。決してヤクザが仕返しすることではない。 言葉は時代と共に変化する。「お礼参り」のほかにも、「利益」がある。企業は利益を追求する団体である。しかし、「利益」の元の意味は、「仏道に励んだものが手にする仏の恵み」を指す。この場合、「利益」は「りやく」と発音する。 「方便」も仏教用語である。もとの意味は、仏が衆生を導く上手な工夫のことである。ところが現代では「方便を言うな」は、「いい加減なことや出鱈目をいうな」という意味に変化してしまっている。 嵯峨天皇の勅命によって弘法大師に与えられた高野山に、弘法大師自らの手によって真言宗総本山が建てられたのは、八一六年のことである。金剛峯寺が寺名であるが、山名の高野山の方が一人歩きしている。高野山の広さは、百聞は一見にしかず≠フ通り、全山をくまなく拝観するには、三日かかると言われている。 私たちは金剛峯寺の鬼門封じのために創建された明王院にわらじを解いた。高岡住職による夕食のお接待と、翌朝六時からの勤行にご一緒させてもらった。竜谷大学仏教科から高野山大学大学院で学んだ斑目さんから、高野山の由緒をレクチャーしてもらったが、凡人にはなかなか五臓六腑に染み渡らない。下山してから書物で改めて学んでみたいと思っている。 高野山を下りた後は、斑目さん、玉久さんの出身寺である京都の大覚寺を訪れた。南北朝が統合されるまで、ここに南朝の御所があった。広沢ノ池では、堤の桜が咲き乱れていた。斑目さんは大覚寺の中僧正である。玉久さんは大覚寺派等利寺の住職だ。二人は本家に寄ったように、喜々として隅々まで私を案内してくれた。 二人を見ていて、俗世界とは違う、もう一つの世界を垣間見る思いがした。 空海と弘法大師 空海は七七四年、讃岐国多度郡屏風浦(現善通寺市)に生まれた。父方は佐伯家、母方は中国帰化人の名門阿刀家の血筋を持つ。幼少の頃から天才ぶりを発揮した空海は、京都に上り、伯父の阿刀大足に師事。十八歳で大学に入る。当時の大学を修めたものは、国司(現在の国家公務員上級職)を務めることになる。しかし、空海はこれを拒み、讃岐に戻り四国各地の聖地を巡って修行を積んだ。現代のお遍路(八十八ヶ寺巡り)は、空海の聖地巡りである。 八〇四年には最澄らと入唐し、長安の青龍寺で密教大法を伝授される。帰朝後「請来目録」を表し、平城天皇に献上した。八一六年から嵯峨天皇と親交を持ち、紀伊国高野山を賜り、高野山金剛峯寺を開基した。ちなみに弘法大師は諡(し)号である。 弘法大師は、嵯峨天皇、橘逸勢と共に、平安時代の三筆といわれた書道家でもあった。 真言密教(真言宗)を開祖するまでの四国聖地での修行中に、空海は四国各地に溜池を造り、衆生救済を施した。飛行機から見た四国上空の風景には、満濃池ほか無数の大中小の池が点在していた。 四国の山脈に降る雨は、海岸線までの距離が短く、鉄砲水を起こし、稲作用の水飢饉の原因にもなっていたが、空海の溜池造りの指示によって、今日高知県の二期作を含む米作地帯が出来あがったのである。 空海は自然しかなかった四国に、治水・水利事業を施し、農業振興にも多大な貢献をしたのである。四国が生んだ最大のアントレプレナーと言っても過言ではあるまい。 現代でも、四国を訪れるお遍路さんは年間八十万人を下らない。八十万人のお遍路さんたちは、徳島、高知、愛媛、香川の順に四国全土を回る。その間に鉄道、バス、タクシーの交通機関、宿泊施設、レストラン、土産物店などに万遍なくカネを落として行く。もちろん各寺へのお賽銭も......。 現在、四国四県は「四国お遍路」を世界遺産に登録するための県民運動を展開している。有形(八十八ヶ寺)以上に、無形(巡拝行為)の部分が日本文化の一つとして理解されることを望みたい。 高野山の奥の院に続く参道には、織田信長と明智光秀、徳川家康と石田三成の敵味方を問わない五輪塔が所狭しと並んでいる。松平、前田、島津、毛利、伊達など諸藩の大名に混じって、静御前や、初代市川団十郎から松下幸之助まで、歴史上の人物の墓所がある。 現状打破を出来ない我が日本の為政者たちは、利権漁りをやめて、お遍路に出かけてみるといい。日常の汚れを浄化してこそ、日本の将来像が見えてくるのではないだろうか。 |
イラスト: かわかみゆういち |
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月刊「力の意志」(サンラ出版) シリーズ 視点・論点 |
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