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まだらめ りきひろ |
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| 「米百俵」の小林虎三郎に 発展へ向かう原動力を見た 河野 斑目 私がネミックラムダの前身である日本電子メモリー工業(ネミック)を創業した昭和四十五年に、創業の地である、新潟県長岡市の地元の方に挨拶に回りました。その時、当時の市長さんだった故小林孝平さんに「米百俵」と小林虎三郎の話を聞いて、大変感動しました。 河野 斑目 そこに登場するのが、隻眼の小林虎三郎です。長岡藩の大参事だった虎三郎は漢学、洋学に通じていた慧眼の士だったんです。 河野 斑目 まさにその通りです。空腹を満たすために届けられた「米百俵」を、将来の人材を輩出させるために、学校をつくる資金に売却すると言ったものですから、怒り狂った藩士に斬りつけられそうになったのです。しかし、不退転の虎三郎は、不動心で対応しました。 河野 斑目 常在戦場&錘mたるもの、戦いがなくても常に戦場にあれ、という長岡藩代々の藩主、牧野家の家訓があります。いきり立った家臣、藩士たちはこれを見せつけられて、たちまちひれ伏したのです。 河野 斑目 いまの日本人は、日の丸や国歌を軽蔑しがちですが、日本人以上に自由奔放なアメリカ人たちは、星条旗と国歌には、敬虔な態度で接します。それと同じです。 河野 斑目 戊辰戦争では、河井継之助が長岡藩主の牧野忠訓の意を汲み、政府軍に中立を提案します。しかし、この訴えは受け入れられませんでした。戦争をしないようにするには学問、教育を施し、平常時に物身ともに豊かになっていなければならないと、廃墟の中で虎三郎は確信するのです。 河野 斑目 藩儒に学んだ後、佐久間象山に弟子入りします。この時吉田松陰と学問で競います。松陰は別名寅次郎といい、象山は、二人を「二虎」といって、かわいがりました。松陰を「事を天下に為す者」と評し、虎三郎を「わが子を依託して教育せしむべき者」と評したという記録が残っています。 河野 斑目 松陰は安政の大獄に連座し、江戸伝馬町で斬首されてしまいましたが、虎三郎は長岡に「国漢学校」を開設しました。明治三年のことです。それまでは、学問は藩士しか施されませんでしたが、士農工商のどの身分でも、学問を志す者に門戸を開放したのです。国漢学校は支那学と洋学に分かれていましたが、これは明治政府の学制公布よりも二年も早かった。虎三郎の先見性は、国よりも先に行っていたのです。 河野 斑目 学制公布によって、長岡坂之上小学校につながり、もう一つは長岡洋学校に分かれていきます。長岡洋学校は、その後旧制長岡中学校、県立長岡高校に発展、新潟県屈指の名門高校になっています。 |
「米百俵」 |
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