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マガジン X 2001・11月号掲載    
 

大覚寺中僧正



「米百俵」の精神
 







略歴
まだらめ
りきひろ

  「米百俵」の小林虎三郎に
発展へ向かう原動力を見た


河野 小泉首相の就任演説で、一躍有名になった「米百俵」ですが、斑目さんが初めて「米百俵」に出会ったのは、いつごろでしたか?

斑目 私がネミックラムダの前身である日本電子メモリー工業(ネミック)を創業した昭和四十五年に、創業の地である、新潟県長岡市の地元の方に挨拶に回りました。その時、当時の市長さんだった故小林孝平さんに「米百俵」と小林虎三郎の話を聞いて、大変感動しました。

河野 戊辰戦争で維新政府軍と戦い、廃墟と化した長岡藩に、同じ新潟の分家である三根山藩から、救援米として届いた「米百俵」をどうするかというときの話ですね。

斑目 そこに登場するのが、隻眼の小林虎三郎です。長岡藩の大参事だった虎三郎は漢学、洋学に通じていた慧眼の士だったんです。

河野 隻眼にもかかわらず、双眼よりも時代の先を見通す眼力を持っていた。

斑目 まさにその通りです。空腹を満たすために届けられた「米百俵」を、将来の人材を輩出させるために、学校をつくる資金に売却すると言ったものですから、怒り狂った藩士に斬りつけられそうになったのです。しかし、不退転の虎三郎は、不動心で対応しました。

河野 荒れ狂う藩士たちが、虎三郎が掲げた掛け軸の言葉にひれ伏すという場面もありましたね。

斑目 常在戦場&錘mたるもの、戦いがなくても常に戦場にあれ、という長岡藩代々の藩主、牧野家の家訓があります。いきり立った家臣、藩士たちはこれを見せつけられて、たちまちひれ伏したのです。

河野 戦後日本から消えてしまった大義にしたがう精神ですね。

斑目 いまの日本人は、日の丸や国歌を軽蔑しがちですが、日本人以上に自由奔放なアメリカ人たちは、星条旗と国歌には、敬虔な態度で接します。それと同じです。

河野 虎三郎が教育施設に「米百俵」の売却資金を投入した狙いは、何だったのでしょうか。

斑目 戊辰戦争では、河井継之助が長岡藩主の牧野忠訓の意を汲み、政府軍に中立を提案します。しかし、この訴えは受け入れられませんでした。戦争をしないようにするには学問、教育を施し、平常時に物身ともに豊かになっていなければならないと、廃墟の中で虎三郎は確信するのです。

河野 虎三郎は、学問の士だったのですね。

斑目 藩儒に学んだ後、佐久間象山に弟子入りします。この時吉田松陰と学問で競います。松陰は別名寅次郎といい、象山は、二人を「二虎」といって、かわいがりました。松陰を「事を天下に為す者」と評し、虎三郎を「わが子を依託して教育せしむべき者」と評したという記録が残っています。

河野 象山の眼力も凄いですね。「二虎」はその通りの道を歩んだのですが、松陰は志し半ばで囚われの身となってしまいましたよね。

斑目 松陰は安政の大獄に連座し、江戸伝馬町で斬首されてしまいましたが、虎三郎は長岡に「国漢学校」を開設しました。明治三年のことです。それまでは、学問は藩士しか施されませんでしたが、士農工商のどの身分でも、学問を志す者に門戸を開放したのです。国漢学校は支那学と洋学に分かれていましたが、これは明治政府の学制公布よりも二年も早かった。虎三郎の先見性は、国よりも先に行っていたのです。

河野 わが国で最も古い学校は、信州の松本開智小学校でしたが、それより三年前に開設された国漢学校のその後は、どのようになったのですか?

斑目 学制公布によって、長岡坂之上小学校につながり、もう一つは長岡洋学校に分かれていきます。長岡洋学校は、その後旧制長岡中学校、県立長岡高校に発展、新潟県屈指の名門高校になっています。

  概説
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